本田宗一郎

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本田技研工業 創業者 本田 宗一郎

障害一エンジニアを貫いた、戦後日本のビジネスヒーロー

写真:本田 宗一郎

卓越したアイデアと不屈の精神で、一介の町工場を一代で「世界のHONDA」に育て上げるとともに、「オートバイのまち浜松」の礎を築いた本田宗一郎。社長業の傍ら、30歳を過ぎて浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、若い学生に交じって学生服と学生帽姿で通学した。後にその多大な功績が認められ、藍綬褒章、正三位勲一等旭日大綬賞などを受賞。さらに日本人としては初めて、アメリカの「自動車殿堂」入りも果たした。晩年、「自動車メーカーの創業者が渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけない」という遺言を遺し、亡くなった際には社葬は行われず各工場でささやかな「お礼の会」だけが執り行われたという。いかにも宗一郎らしい最期である。

出身地:静岡県磐田郡光明村

「新しい大きな仕事の成功の陰には、研究と努力の過程に99%の失敗が積み重ねられている」
自動車修理工から身を興し、一代で「世界のHONDA」を築き上げた本田宗一郎が、本田技研工業社長退任挨拶のなかで語った言葉です。「やるからには他人の後を追っかけるのではなく、アッと言わせるものをこしらえるんだ」と、あくまでもオリジナルであることにこだわり続け、「和製エジソン」と評された本田宗一郎。「天才は99%の努力と1%のひらめきからできている」と、かのトーマス・エジソンも語っているように、宗一郎の成功の足跡もまた、「99%の失敗」の積み重ねに支えられていたのです。

この手でモノをつくりたいんだ

1906年(明治39年)、静岡県磐田郡光明村(現浜松市天竜区)の鍛冶屋の長男として生まれた本田宗一郎は、腕利きの職人であった父・儀平の影響もあってか、幼い頃から機械いじりが好きで、手先の器用な少年でした。1922年(大正11年)、尋常高等小学校を卒業すると、東京・本郷の自動車修理会社アート商会へ丁稚奉公に。仕事といえば子守りと掃除ばかりの毎日でしたが、「こうして自動車を眺めていられるだけ幸せなんだ」と自らを励ましながら、雑用の合間をぬっては親方や兄弟子たちの仕事を食い入るように見つめていました。
そして1年ほどが経ちスパナを握らせてもらえるようになると、宗一郎の本領が発揮されます。手先が器用で、天才的なカンを持ち、何よりも自動車が好き。早朝から深夜まで貪欲に仕事に取り組み、1928年(昭和3年)、のれん分けのかたちで浜松市にアート商会浜松支店を開設しました。なお、のれん分けを許されたのは宗一郎ただ1人だけでした。

アート商会

1935年ごろのアート商会浜松支店。左のクルマ『浜松号』の横にサングラスをかけた宗一郎がいる。左から15人目は、弟の弁二郎。右端には当時としては珍しかったリフト式修理台が写っている。これも本田の発明品の1つである。

写真:アート商会

持ち前の器用さでどんな故障も簡単に直してしまう宗一郎の評判は全国に広まり、時の総理大臣と同等の収入を稼ぐほどになりました。しかし、「どんなに繁盛しても修理は修理でしかない。俺はこの手でモノをつくりたいんだ」と、周囲の反対を押し切ってピストンリングの製造に着手。結果は、3万本の試作品のなかから厳選した50本を納めて3本のみが合格、という惨憺たるものでした。
この失敗が宗一郎を奮い立たせました。「理論を基礎から学ばねば」と、浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)の聴講生となり、そこで得た知識を活かしてついに大量生産に成功。しかも、この間にピストンリングに関する特許を28件も取得したのです。

自動車レースに出場

1936年7月、日本初のサーキットである「多摩川スピードウエイ」で行われた第1回全日本自動車スピード選手権大会に、本田宗一郎は弟の弁二郎とともに、アメリカ車を自らの手でレーサーに改造した『浜松号』で出場した。本田チームは、トップを独走したが、ゴールに入る直前に、コースに入ってきた他車を避けようとして大回転。車外に放り出された弁二郎が骨折・全身打撲で6カ月の重傷、宗一郎は左腕と顔面に負傷した。

写真:自動車レースに出場

やりもせんで、何がわかる

1946年(昭和21年)、戦後の復興期のなかで宗一郎は本田技術研究所を設立し、旧陸軍用無線機発電用小型エンジンを改造した自転車用補助エンジンを発売しました。このエンジンがホンダの原点であり、夢の出発点だったのです。
そして1947年(昭和22年)、初めての自社開発エンジンである自転車用補助エンジン『ホンダA型』を取り付けた原動機付自転車を完成させました。これは、燃料タンクに初めて「HONDA」と書かれたホンダ最初の市販製品でもありました。
さらに翌1948年(昭和23年)には本田技研工業株式会社を設立。翌年には、エンジンから車体まですべてを自社開発したホンダ初の本格的オートバイ第1号である『ドリーム号D型』を世に送り出しました。

『ホンダA型』と
『ドリーム号』

初めて「HONDA」の名が付いた自転車用補助エンジン『ホンダA型』を積んだ原動機付自転車(左)と、ホンダ初の本格的オートバイ第1号である『ドリームD型』(右)。「今に世界のHONDAになる」という宗一郎の夢を託し「ドリーム」と名前を与えられたD型は、ホンダがオートバイメーカーになった夢の証でもあった。

その後もホンダのオートバイ生産は順調に伸長し、1952年(昭和27年)には東京進出を果たします。「やりもせんで、何がわかる」と、社長である宗一郎も若手技術者といっしょになって油にまみれ、本社にも工場にも社長室は存在しませんでした。「『社長』も『工員』も単なる名称に過ぎず、会社の席はすべて同じはずである」。これが彼の組織哲学でした。
しかしながら、当時のオートバイ生産では、日本企業と海外企業の間に圧倒的な技術力の差がありました。「海外企業に追いつき追い越し、世界中で愛される製品をつくりたい」。そんな目標を実現する手段として宗一郎が選んだのが、国際的なオートバイレースへの参戦でした。その手始めとして、1954年(昭和29年)、ブラジルで行なわれた国際オートレースに初参戦。そして1959年(昭和34年)には、世界の強豪が出場するマン島TTレースに念願の初出場を遂げ、125ccクラスで6、7、8位に入り、チームメーカー賞を獲得。さらに1961年(昭和36年)には、マン島TTレース参戦3年目にして、125cc、250ccとも1位から5位までを独占。完全優勝を果たし、「HONDA」の名を世界に轟かせたのです。
また、四輪車の開発にも踏み切り、1959年(昭和34年)、試作第1号車となるセダンタイプの軽自動車を完成させました。しかし、当時としては画期的な前輪駆動を採用していたにもかかわらず、宗一郎には不満でした。「俺のつくりたいクルマはこれじゃない。もっと走るクルマだ」

おい、スポーツカーだ!

「おい、スポーツカーだ」。1962年(昭和37年)初頭、宗一郎のこのひとことで、ホンダの乗用車第1号はスポーツカーに決まりました。彼はクルマを単なる移動の手段としてではなく、「走る喜びを感じるもの」と考えていたのです。4人乗り小型セダンが主流であった当時の日本において、スポーツカーの開発は未知数の試みでしたが、宗一郎はこう言い切りました。「そこに需要があるからつくるのではない。私たちが需要をつくるのだ」と。

 こうして2人乗りスポーツカー『Sports360』および『Sports500』が誕生し、第9回全日本自動車ショーで一般公開されました。展示場は黒山の人だかりとなり、内外に大きな反響を巻き起こしました。そして翌1964年(昭和39年)2月に、ホンダ初の普通乗用車として『S500』が発売されました。
さらに同年8月、ホンダは世界最高峰の自動車レースであるF1レースへの初参戦を果たしました。4輪車の最後発メーカーであるにもかかわらず、国内のどのメーカーも参戦など考えもしなかったF1へのチャレンジを、あえて決断したのです。それは、宗一郎の「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった』という熱い思いを実現するための第一歩でした。

『S500』試乗会

1963年(昭和38年)、本田技術研究所のそばの荒川河川敷に造られた荒川テストコースで行われた『S500』の試乗会で自らハンドルを握る本田宗一郎。HONDA初の四輪車といえば軽トラックの『T360』だが、初の普通乗用車は2座スポーツカーの『S500』である。身近な働くクルマとスポーツカーで四輪生産のスタートを切る。まさにホンダらしい四輪時代の幕開けといえる。

写真:『S500』試乗会

そして1964年(昭和39年)、わが国初のF1マシン『RA271』でドイツGPに初参戦し、翌年のメキシコGPでついに優勝。F1に参戦してから、わずか2年目での快挙でした。さらに、F2レースにも参戦し、1966年(昭和41年)には驚異の11連勝を成し遂げたのです。
1983年(昭和58年)のF-1コンストラクター(製造者)チャンピオンとなった感想を「歴史もなければ、伝統もない。レースの専門家なんてひとりもいない。ウチにあるのはウチらしい技術だけ」と語った本田宗一郎。彼の人生もまた、失敗を恐れず、ただひたすら自分の夢に向かって走り続けた、実に「本田宗一郎」らしい人生であったといえるでしょう。